医学史の世界
I◆新刊紹介『とちぎメディカルヒストリー』(獨協出版会、2013年)
本書は獨協医科大学で編集した栃木県初の医療史。Ⅰ医療編の論考は、日野原正「栃木県の民間療法」、柏村祐司「医療にまつわる信仰」、菊池卓「板東の大学と田代三喜・曲直瀬道三」、中野正人「県内初の西洋医斎藤玄昌とは」、崎石道治「壬生町・石崎家の医療史」、大沼美雄「種痘医北城諒斎と種痘医磯良三」、菊池卓「種痘の普及と足利地方」、岡一雄「感染症と闘った医師たち」、中野英男「「渡辺清絵日記」に見る医療・衛生」、本田幹彦「江戸幕府日光社参医療」、内山謙治「栃木町に医学校の基礎を築いた松岡勇記」、大嶽浩良「栃木県のコレラ騒動」、菊池卓「栃木県足利病院の設立と閉鎖」、寺野彰「足尾銅山鉱毒事件と田中正造」.菊池卓「整形外科の父・田代義徳」、Ⅱ看護編は、加藤光寶「壬生養生局おける看護人の発祥と当時の看護」、加藤光寶「近代看護の先駆者黒羽藩...大関和」、Ⅲ薬剤編は。宇津義行「宇津権右衛門と秘薬宇津救命丸」、松木宏道「壬生藩士太田信義と太田胃散」、竹末広美「日光御種人参」、Ⅳ歯科編「栃木県歯科事情」など論考のほか、近代医学、栃木県の医療行政、医師会他栃、県看護協会、栃木県医療史年表などが手際よくまとめられている。
疱瘡や種痘について興味深い資料も紹介されている。柏村祐司氏の記すところによれば、宇都宮市岩原の旧家に江戸時代に書かれた「疱瘡神五人組相渡申候誤証文之事」が保管されているという。長禄三年(996)に若狭国小浜の紺屋六左衛門へ宛てて、出したとされるいわゆる疱瘡神の詫び証文といわれるもので、関東地方で90点確認され、栃木県内でも10数枚が確認されているという。これはおそらく久野俊彦「呪符の伝播ー栃木県の疱瘡神の詫び証文」(大島建彦編『民俗のかたちとこころ』岩田書院、2002所収)や大島建彦「若狭の疫神祭祀」(『西郊民俗』138号、1992年)、大島建彦『疫神とその周辺』(岩崎美術社、1985年)などの研究を踏まえてのものと思われる。詫び証文の全国的流布を追うことにより、民衆の疱瘡神信仰の一つの類型が浮かび上がるかもしれない。
中野正人氏は、壬生藩医で蘭方医斎藤玄昌の壬生藩への種痘についても紹介している。「藩医斎藤玄昌によって江戸から痘苗が壬生城下にもたらされ」とあるので、伊東玄朴由来の痘苗がはやくも壬生城下にもたらされたものとみられる。嘉永三年二月から領内への種痘対象児童の調査が開始され、四月から「藩医匂坂梅俊の立ち会いのもとで、初回から第三回までの三段階の構成で八日毎に種痘を実施することが藩当局により定められた。初回は種痘、第二回(四日目)は診察・鑑定、第三回(八日目)は発痘の具合を診察し、再種の要不要を確かめる。また、その痘膿を再種して、別の小児に種痘をする」という具体的な種痘の実施方法が紹介されている。
藩主の子国之助らに種痘を実施したのが、嘉永二年段階なのかを知りたいことと、「八日目」の診察というのは、当時のわが国の数え方で実質は現在の七日目にあたるものとみられる。
中野氏は、嘉永四年の藩医五十嵐順智の『日記』に、「此小児牛痘種七日目にて是より引候也、手塚治郎助、関和文斉(斎カ)右両人にて植候也」とあるのは、「種痘接種が七日後も善感しないので、順智の指導により両名の医師が即日再種をしていることを意味する」としているが。再種ではなく、七日目に小児から「引候(引痘して)」、手塚治郎助、関和文「斉」の両名医師が、他の子どもらに種痘をしたと解釈したい。
山川領下片田村の場合をみると、万延二年正月二十日に、名主宅を会所として藩当局から藩医がきて、二歳から四歳までの八人の男女に両腕に五箇所接種し、八日目に藩から斎藤玄昌が派遣されて善感したかどうかの検査を行ったとあり、二月十四日までにすべての対象者が種痘済みとなったとある。
本論文によって、嘉永三年段階から、壬生藩領では、藩当局の命令により、名主宅などへ小児を集めて、藩医が最初に種痘し、在村医の手塚や関が補助医師として、村内へ種痘を広めていく体制が組織的に行われていたことがわかる。佐賀藩と同様の組織的な種痘実施の仕組みが壬生藩でも嘉永三年段階にとりいれられていた事例として、全国的にも早い取り組みとして非常に興味深い。
大沼美雄氏は、大田原出身の北城諒斎の、弘化二年の江戸遊学と伊東玄朴門人の烏山藩医伊東玄民への入門、嘉永二年の江戸再遊での佐倉藩医鏑木仙安への入門、すくなくとも嘉永四年からの大田原藩での種痘、北城諒斎の明治四年「種痘三祖小伝」、明治五年以後の種痘医としての活動などを紹介している。諒斎のあげる種痘三祖とは、英国のジェンナー、清の邱浩川、桑田立斎であるので、佐賀藩由来の痘苗で直接の江戸の種痘師匠は桑田立斎かもしれない。
大沼氏は、黒羽藩出身の磯良三が明治四年五月、大学東校から種痘術の免許を得たことも紹介している。
菊池卓氏は、足利の近藤南泰なる医師が、弘化三年(1846)に『種痘編』を書き上げていることを紹介し、川島元徳なる医師が江戸で修業後、羽刈村で開業し、種痘活動を行い、明治九年には種痘医に任命されたこと、羽刈村の名主家に生まれた須藤玄佐は、壬生藩医斎藤玄正(ママ)に入門し、種痘術を学び実施したこと、明治四年一月三十一日に自宅を羽刈村種痘所とすることを認可されたこと、足利藩医の早川俊堂が、すくなくとも明治七年段階には足利種痘所の一員として種痘を実施していたこと、その門人らが足利地方の地域医療の近代化を推進したことなどを紹介している。
栃木の近世から近代に関わる医療史について、極めて実証的にまとめられ、他書の範となる書といえよう。
◆象先堂での種痘と種痘日をめぐる問題
嘉永2年8月に淳一郎に植えられた痘苗がうまく植え継がれて、藩主の9月の江戸参府にあわせて、藩医島田南嶺らによって嘉永2年(1949)10月2日に、江戸屋敷に伝えられた。『鍋島直正公伝』によれば、玄朴娘に接種後、11月に貢姫(みつひめ)に接種した。そのとき立ち会ったのが、水町昌庵、佐野儒(孺)仙、牧春堂、大石良英の4人にして、12個を植えて皆ことごとく善感したりしかば、日本の種痘は此の種に始まれりとある。
『鍋島直正公伝』の種痘についての記述には、細かいところでやや疑問がいくつかあるのだが、江戸での接種とその広がりの記述はほぼこのとおりでよく、伊東玄朴のもとから、その友人桑田立斎、大槻俊斎らや門人、藩主直正のつながりで、宇和島藩や薩摩へも広がったのであった。
...
安政5年(1858)に伊東玄朴ら83人が、お玉が池種痘所を開設することができ、ここに、準公式な種痘所が始まった。しかし、それまでの象先堂における種痘については十分あきらかではなかった。
『柴田収蔵日記』から象先堂における種痘に関する記事を抜きがきしてみる。
嘉永3年5月6日 接痘の小児十四人来る。
5月18日藤沢三省に同人父へ種痘の事を申し遣わしたる哉否や書状にて問い遣わす。
5月20日、接痘の席へ出て加功を為す。伊東玄晁、水町玄道[肥前小城] 等来りて苗を採る。先生接す種児四、五人有り)。
加功とはお手伝いのこと。
6月26日 接痘日‥
7月24日 接痘に加功 に出る。他より杉田成卿、大槻俊斎、山本有中、水町玄道、外に諸生弐人来る
7月28日、青木玄礼[武州多摩郡相原村]へ‥より□御代官江川太郎左衛門殿より種痘之御触書を示す
12月17日 種痘に加功す。
安政3年の種痘
10月10日種痘、水町玄道来る。
10月24日種痘、水町、池田多仲等席に来る。
11月 8日種痘、良悦種痘の加功に来る。先生より許さず。
11月15日種痘、水町来る。
11月22日種痘、水町、池田、良悦等来り、加功す。
11月29日種痘、水町、織田、池田、良悦等来る。
12月7日良悦種痘に来る。
12月14日種痘、水町、池田、織田、良悦来る。
松岡良悦(越後松岡)、織田[伊東]貫斎叉は研斎
象先堂でも種痘日を決めて、門人等の手伝いを得て、種痘が活発に行われていることがわかる。
種痘日を安政3年11月8日から7日目ごとに定期的に設けて実施されていることに注意したい。
なぜ7日目かというと、牛痘を接種して7日目が発疹が最も大きく、よい種をとることができるからであった。
このことを知らないと、次のような間違いの文章を書くことになる。
「種痘が成功すると、直正公は藩医大石良英を長崎に派遣した。良英は、宗建の子永叔を連れて、佐賀へ帰り、永叔から最もよい種を取って淳一郎君へ接種をした結果、こうして種痘が広まることとなった」
という記述である。『鍋島直正公伝』をはじめ、多くの種痘伝来概説書はこのような間違いを犯している。
どこが間違いか。いくつもあるのだが、
一週間ごとに種を植え継ぐことを理解していないがための誤りが大きい。
宗建の3男建三郎に接種したのが嘉永2年6月26日。藩主子淳一郎への接種が同年8月22日(23日説もある)で約
56日ぐらいの日数がある。
最初の接種成功者の宗建3男建三郎やその兄永叔に植えられた牛痘の発疹は、1ヶ月以上もたっていると、痂もはげてしまっていて、最良の発疹(膿が最大で円形にみなぎっている状態)からの接種とはならないのである。だから永叔の痘を苗にして淳一郎に接種するというのは明確にあやまり。
7日ごとに接種され植え継がれた種が約56日間でおよそ8世代目に佐賀藩主淳一郎君への接種となる。
また、根本的な事実の間違いが、佐賀城下へ種痘児を伴っていったのは大石良英でなく、楢林宗健であったことであり(楢林家政記等)、8月4日に種痘児を伴って長崎を出発した楢林宗健が8月6日に佐賀城下へ到着し、翌日8月7日に、藩医島田南嶺と大石良英の子に宗建が接種し、一週間後の8月15日に、藩医の子の発疹が大きくなったところで、多久領主の子萬太郎に、(宗建指導でおそらく大石良英が)接種し、その一週間後の8月22日に淳一郎君へ、宗建指導で、大石良英が接種ということが事実の流れだろう。
一週間ごとの接種を続けるということが、種痘継続において、最も大切なことであった。
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