井上友庵の医療道具(7)カテーテル
井上友庵の医療道具(7)カテーテル
◆文化15年(天保元年=1804)に友庵が注文した外科道具にカテーテルがありました。「但銀細工男形 一 カテイトル 壱本 代五拾匁、 但シ銀 一 同女ノ形 壱本 代八匁五分」とあり、男用が銀細工で50匁、女用は銀製なのですが8匁5分と、男用と比べてかなり価格が安いです。なぜでしょうか。この違いは銀細工の精密さだけでなく、使っている銀の量が男性にくらべ
て女性のものが4分の1程度と考えられます。これはじつは金属管なので、その長さの違いにもあったのでしょう。男性と女性で長さの違うものに使うカテーテルとは、さてなんでしょうか。 ◆写真はミヒェル先生らの研究報告書にある、陸上自衛隊衛生学校・彰古館所蔵のカテーテルです。天保年間のカテーテルで、「此二カテーテルハ共ニ天保初年、和蘭ヨリ舶来シタルモノヲ、予(秋山練造陸軍軍医中将)ノ祖父担海、長崎ヨリ買求メ使用シタルモノナリ」と記録があり、天保初年に長崎から秋山担海なる医師が買い求めたもののようです。写真では銀製でなく真鍮製のように見えます。 ◆カテーテルは、医療用中空細館...のことで、江戸時代のカテーテルは、尿道に挿入して尿閉を治療する道具として使われました。男性の尿道は16~20㎝と長いですが、女性尿道は4~5㎝と短く拡張性に富んでいますので、友庵は男性用の長いのと女性用の短いのを京都の鍛冶師から購入したのです。京都から購入したということが重要で、すでに文化年間には、我が国で西洋式カテーテルが模倣製造されていたことがわかります。 ◆カテーテルの歴史は古く、ローマ時代の遺跡からs字状のカテーテルが発見されています。写真はナポリ考古博物館所蔵のもので、尿道に差し込むためのものです。 ◆我が国への伝来時期は不明ですが、紅毛流外科医の外科道具にはみられますので、江戸時代前期には知られていました。漢方医もこれは使ったようです。日本人で模製した事例として、宝暦12年(1762)、長崎の蘭方医吉雄耕牛が長崎の甚太郎なるものにカテーテルを模造させているのが、史料的に確認できる早い事例でしょう。広川獬『蘭療方』巻二「器物図説」には、「吸気管」の呼称で「カテイテル(葛底的児)」について「大凡淋疾。及尿閉皆用之」と説き、「以白金或鼈甲製之」として図示しています。カテイテルは淋疾と尿閉には通じをよくするために使ったようです。白金は白銀で、銀製と鼈甲製があったとのことです。 ◆寛政11年(1799)11月9日発大槻玄沢から京都の小石元俊あての手紙には、江戸で製造したカテーテルを小石に送ったことが記されているので、寛政期には、すぐれたカテーテル製造細工師がまだ京都にはいなかったのかもしれません。しかし、文化年間になると、京都三条通りの安信から友庵はカテーテルを購入しているので、この2,30年間に急速に医科道具製造鍛冶がひろがったと考えられ、同時に、医師の増加もうかがえるのです。 ◆さらには天保14年(1843)刊行の『黴瘡茶談』には船越敬祐なる京都錦小路の医師が、新たにゴム製のカテーテルを作ったと宣伝しています。金属製はやはり堅く挿入には大変な痛みが伴ったことでしょうから、柔らかくて痛みが少ないゴムカテーテルは画期的な発明だったと思われます。 ◆現代では、1999年にオリンパスが、直径1mmで、体内の細管部に挿入する管状の診断・治療器具であるカテーテルを発明し、その先端部を、手や指のように全方向に曲げられる多自由度管状マシーン(マニピュレータ)を開発し、体液の排出や、血管内の治療を行うことができるようになっており、カテーテルはますます進化し、心臓外科や多様な手術に用いられています。