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佐賀医人伝物語 織田良益

鹿島市に織田病院があります。その先祖の織田良益さんの活動を『佐賀医人伝』にまとめました。明治時代に北里柴三郎伝染病研究所の影響をうけ、鹿島市に基礎医学研究のための伝染病研究所と病院を建設した鹿島の医師たちの先駆的活動に感銘をうけます。 

織田良益 (弘化四年~昭和一二年、        一八四七~一九三七)    ...      鹿島藩医師、鹿島共同養生所設立、佐賀県医師会長

織田良益は、弘化四年(一八四七)三月二四日、鹿島藩医織田巨庵の二男として生まれ、代々医家としての織田家の一一代目を継いだ。巨庵は、江戸の山田玄民に医を学び、帰郷後、安政二年(一八五五)の四八歳のときに、佐賀藩医学寮から医業免札を受けている。織田良益は、幼名を文明といい、漢学を鹿嶋藩校弘文館や多久の草場珮川塾に学び、一九歳の慶応二年(一八六六)に、佐賀本藩の蘭方医である渋谷良次の塾で西洋医学を学んだ。渋谷良次は、緒方洪庵門人で幕末の佐賀藩好生館の指南役にもなった医師である。二年一一ヶ月におよぶ内外科修業ののち、戊辰戦争に従軍し江戸上野に出陣。帰郷後、明治二年(一八六九)から再び好生館で渋谷良次に学んだ。 その後、父巨庵の跡を継ぎ、明治四年北鹿島中村(現鹿島市中村)に開業したが、明治一二年(一八七九)に沖縄県発足にあたり、旧鹿島藩主鍋島直彬が初代県令として赴任すると、医官として沖縄に移り、コレラ流行の際には、秋永鄰雨らとともに船隔離などの治療防疫につとめた。翌年、帰郷し、北鹿島中村自宅で医業を続けた。  明治前期の鹿島医界は、漢方医と蘭方医との対立がつづいていたが、明治一二年(一八七九)に政府は、内務省に中央衛生会を、各府県に地方衛生会を設置し、市町村にいたるまで衛生委員をおくことを義務づけ、行政組織を整え始めた。一方、明治一六年(一八八三)には、大日本私立衛生会が、長与専斎、石黒忠悳、佐野常民らによって創始され、両者の和解の機運が高まった。明治一七年(一八八四)になって、藤津郡内医師による藤津郡医会が設立され、鹿島医会もその中心的な役割を果たした。  鹿島医会では、基礎医学研究のための伝染病研究所とその付属病院として鹿島共同養生所を設立した。良益もその中心になって私財を担保に借入金を調達するなどの活動をした。明治三四年(一九〇一)に共同保養所が設立されると初代所長となって地域医療に尽くした。一九九六年に、藤津鹿島医師会敷地に、伝染病研究所発足からの沿革を記した記念碑が建てられた。 良益の病院は、跡を継いだ長男簡一の時代に明治四三年(一九一〇)に、北鹿島から、現在地の鹿島中牟田に病院を移転した。当時としては佐賀県でも個人経営の病院は珍しかった。 昭和一三年九月一六日、九六歳の天寿を全うした。生前の昭和六年(一九三一)に鹿島医会は、その業績を讃えた寿碑を米寿の祝いとして贈っている。 良益のあとは、長男簡一が継いた。簡一は明治一〇年(一八七七)八月二八日に、良益の長男として生まれ、有田の儒学者谷口藍田に学んだあと、第一高等学校医学部に学び、東大耳鼻科において研究し、日露戦争に従軍して、陸軍二等軍医となる。明治四十一年(一九〇八)に、父を継ぎ開業し、のち中牟田で開業。戦前戦後を通じて、地域医療と医師会の発展に尽力した。日本医師会参与、県医師会長、郡医師会長、旧鹿島中学校医、済生会病院院長などを歴任。昭和三五年四月二九日、八四歳で逝去。嗣子五二七(いふな)が跡を継いだ。 なお、巨庵の長男新一は別名を、玄仙、巨仙といい、漢学を草場船山に、医を佐賀本藩の藩医松隈元南に学び、医師となったが、明治になると、明治政府に仕え、海軍大軍医として名をなした。大正初期に東京にて没し、現青山霊園に葬られた。


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