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武富文益の骨

5月28日の午後、佐賀駅近くの黄檗宗の大興寺にでかけた。事の発端は昨日、佐賀大学名誉教授の井上敏幸先生から、「骨が出た」という電話をもらったからである。落ち着いて聞くと、大興寺の墓地整理のときに武富圯南(たけとみいなん、幕末の儒学者)の伯父にあたる人物の 白骨が、頭蓋骨から指の先まですっかり全部出てきた、火葬にする前に、誰か視ることができる人がいないかとという問い合わせだった。 ◆さっそく医学部の川久保善智さんを紹介した。そして本日午後から調査に入ることになった。 ◆行ってみると川久保さんらがすでに来ていた。墓地を一回りしてから小屋のほうへいくと、和尚さんや井上先生が段ボール箱を覗いていた。 ◆川久保さんが頭蓋骨をみると、ああこれは上流階級の人の頭蓋骨ですねという。どこでわかるの?と聞くと鼻筋にあたる骨(専門用語でなんとかいったが忘れた)が出ているから柔らかい食事を食べ続けた人ですという。 ◆みる人がみればわかるものだと

感心。棺桶は丸い桶でも六角桶でもなく、四角いしっかりした桶で、骨を入れたその上に厚い木の板がかぶせてあったという。... ◆その木の板の内側に墨書があった。井上先生と解読した。「故武富国手、諱文益、字光郷、佐嘉侍毉也、以武富順蔵、諱孝述仲子、為義子、于士人寿四郎政得、以天保三年壬辰二月三日没、享年四十二、葬于三溝村」とある。つまり武富文益は国手(医師)であり、佐賀藩医であった。武富順蔵(諱は孝述)の仲子(次子)で士人(武士身分)の(武富)寿四郎政得の養子となった。天保3年(1832)2月3日に没した。享年42、三溝村(佐賀の旧村名)に葬ったと読める。 ◆最後の二行が興味深い。「大興寺後の人、もしほり出し給はハ、憐ミてまたうつミたまへ」と読んでみた。つまり後の人が掘り出したら、憐れんでまた埋めてくださいと御願いが書いてある。掘り出した私たちへのメッセージでもあった。川久保さんらは、埋めることはせず、研究にとまずは佐賀大学医学部へ持参することにした。 ◆川久保さんは、嘉瀬川ダムに水没した神代家の歴代当主のお墓から出てきた人骨を分析し、顔を復元した研究者で、佐賀で江戸時代以前の人骨が出たら、まず川久保さんに相談することをおすすめする。 ◆あとはお墓の刻字を読んでみたが、また時間のあるときに追記したい。


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