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天草の牛痘

天草の大田山種痘所

天保一三年(一八四二)には富岡町と志岐村に疱瘡が発生し、次第に蔓延しはじめ、二月には大流行となり、同所は出入り止めとなり、罹病者は一〇〇〇人余、死者は五〇余人にも上った。

この年、坂瀬川村医師本郷玄成(現成とも)が、役所の許可を得て、隣村の上津深江村字太田に種痘山という種痘実施施設を創始し、望みの者に種痘を施した。費用面は諸雑費含めて一両であった。この種痘は、大村藩領の古田山種痘所から種痘の心得のある医生を助手に招いた上の種痘山事業であった。

大村藩の種痘は、秋月藩の緒方春朔の考案による鼻乾人痘法であったから、同様の人痘法による種痘と考えられる。天然痘予防の種痘をめぐる情報は、医師や村役人のあいだでかなり緊密につながっていたように思える。ただ、この本郷玄成は、詐欺事件に関わったとして、天保一五年(一八四四)五月に、村を重追放になってしまった。が、種痘所そのものは、村では大村藩関係医師により継続されていた。

私設の痘瘡隔離施設

天保五年(一八三四)には、大矢野村の上村儀八郎なる者が、同村に疱瘡患者の隔離療養所を企画し、入所の場合は、万端養生させるとして、大庄屋らに入所の取り決め書を配布し、入所を募っている。その趣意書が次の史料である。

一、病人一人に看病人一人相添ひ遣はし候はば、先方より両人付き添ふ。此方より遣はし候者とも都合四人の賄料、介抱人賃銭、薬代、謝礼、家賃、宿礼とも日数四十日之間銭一貫六百目にて先方請込み、此方より付添ひ参り候もの一人賃銭は、此方より相辨じ候様。猶又、同家内に又々出来、差遣はし候は、初発遣はし候ものは右一貫六百目、其跡は一人前一貫目宛にて介抱人一人相添え遣はさるべく、餘は前書同様、看病人等付添ひ、万端無差支様先方より請込む。勿論、万一死去いたし候ものは、葬式入用、寺之御布施物、並に後年迄分り候様石碑相建て、此代銭共に一切右請込み之内より致し候事(『天草近代年譜』四二九頁)

疱瘡にかかった患者の看病から身の回り一切を世話する疱瘡患者の隔離療養所の設置趣意書であり、日数四〇日で銭一貫六百目で看病を請け負い、もし死去したら、その葬式費用や寺へのお布施、さらには、石碑まで建ててくれるというものだった。

この疱瘡患者の隔離療養施設は、その後も継続したが、文久二年(一八六二)四月になって廃止となった。その理由は、天草地方では、前々から疱瘡を嫌い、煩うと早々外へ「出養生」をさせる仕来りがあったが、今は牛痘種痘が普及しており、患者も少なくなったこと、費用も莫大にかかり難渋するので、今後はもし煩っても、外へ隔離させることはやめて、自家で養生させることを、大庄屋や庄屋の会合で、話しあい、郡役所の了解を得て、廃止することにしたのだった。この背景には、牛痘種痘がかなり普及していて患者数が激減していたことがあった。

天草での牛痘種痘

天草地方へは、牛痘種痘伝来の情報と技術は、いつどのように伝わってきたのだろうか。本戸組大庄屋木山家文書『嘉永三年御用触写』によれば、嘉永三年(一八五〇)二月一九日付けの会所詰大庄屋(平井為五郎)から東筋村々大庄屋や庄屋衆中宛ての急廻状に、

急廻状を持って御意を得候、然ればおいおいお聞きおよびの通り、上津深江村内において牛痘山開起、是迄多人数種え立て相成候ところ、病人寝臥も致さず一人も気づかいなく仕取り(全快)候事にござ候、当郡は古来より痘病相恐れ候ところ、この節の牛痘にて死失絶家等これなきよう相成るべく、まことにもって仁術これにすぎざる事にござ候、然るところ郡内所々へ深く稽古鍛錬等これなきものども、上津深江村痘山へ参り稽古いたし同所より差図をうけ、郡中へ手分け相廻り候などと申し立て、村々をおげ(だまし)歩き、もちろん正規の見分(見学実習)等致さず、ひと通りの効能とり勝手まま種え付け、中には右の者どもかえって世話凝痘を施行に及ぶ旅医あり。斯かる他国者を見当らば、早々追い払ふべしとの会所触廻はる。

とあり、牛痘種痘が先年から行われていたこと、偽医者が偽の種痘を行う者もいたことを記している。

嘉永三年三月二七日にも、富岡役所より、蘭人持ち渡りの牛痘によって、種痘を上津深江村字大田山で実施したところ、至って軽安で、伝染への気遣いもなく、再煩いの患いがないこともはっきりとわかったこと、未熟の旅医どもが種痘をしているとのことも聞くのでそれは禁止することなどを触れている。さらに追記において、偽医者が横行していること、大田山で正式な種痘法を学ぶため各村から許可することなどが通達された。

木下逸雲の種痘

 嘉永三年三月ごろから、大矢野島三カ村や上島の二間戸村で疱瘡が流行したため、富岡役所や大庄屋らは天草での疱瘡流行の報告と代官所の助力を日田代官所に願い出た。日田居住の天草支配郡代池田岩之丞手代から天草地方の大庄屋へ宛てて、嘉永三年四月一日付けの廻状が届いた。長崎から日田へ招かれて種痘を行っていた医師木下逸雲を派遣するというものであった。

      廻状

                         長崎八幡町医師 木下逸雲

右の者儀、種痘巧者の趣につき、当地(日田)へ呼び寄せの上、当春以来相(あい)様(ため)し候ところ、大勢軽安く種痘いたし諸人相助かり候折柄、このたび富岡陣屋詰めの者より申し越し候趣にては天草郡中疱瘡流行の由にて、牛痘望みの者もおいおい出来候趣相聞こえ候間、諸人を救い候仁術の儀につき、とりあえず出立申し談じ、逸雲差し向け候間、疑念なく望みのものは種痘受け申すべく候

 もっとも元来当人、施しの志これあり候につき、すべて心配なく手軽に取り計らい小前難渋に相成らざるよう世話致さるべく、且つ右牛痘法望みの医師へは、これまた相伝え候趣につき、その旨、組の庄屋へ通達致し候様相心得らるべく候

      嘉永三年四月一日

                    池田岩之丞手代  紅林伊九郎

                   同人手付 菊田啓之進 大坪万太夫 高橋左太夫

              組々大庄屋

木下逸雲が種痘を実施することだけでなく、逸雲から牛痘法伝授を望む医師へも伝えるとも記されている。逸雲が、天草地方にやってきたのが、四月八日であった。大矢野村から大浦、須子、赤崎、富岡などを廻り、種痘を接種しつつ、庄屋宅などでもとめられるままに画業にもいそしんだ。

逸雲が指導した牛痘苗の採取方法は、井上忠「木下逸雲の書簡」によれば「漿ヲ取ルノ法、前日ニツブシ置キ、翌日、痘頂、或ハ痘辺ニ、鼻クソ又目ヤニノ如クこわばりてあるをこそぎ落して取り、硝子庫ニ入レテ蝋(密閉)ス」というものであった。

逸雲は、やがて大島子村の翠樟亭を宿所に、嘉永三年一二月まで、数百人に種痘を実施し、医師らへの牛痘法の伝授を行った。逸雲の滞留中に、伝授を受けた医師の名前は、嘉永四年(一八五一)三月一四日付けの郡会所詰大庄屋からの東筋大庄屋・庄屋衆中宛ての御用触れに記されていた。その名は、教良木村平田賢哉、合津村荒木甘吾、大浦村森崎遠江、同小崎民寿、赤崎村上原礼太郎、下津浦村小島尚謙、打田村吉田周禎、大島子村宮崎玄逸、同津田春合、同音丸慎哉、湯船原村手島太準、二間戸村松崎蕣庵、同松崎恭林、高戸村佐々木守礼、浦村萩原文貞、亀川村織田臣哉、棚底村西章録、同西玄達、御領村山崎民之丞、同米原魯庵の合計二〇人であった。

逸庵からの免許と代官所の後押しによって、二〇人の医師らが、各所で天草地方の牛痘種痘をすすめた。こうして天草地方に牛痘接種が広まり、疱瘡患者が激減し、文久二年(一八六二)には、疱瘡隔離山小屋が廃止されるに至ったのであった。

明治初期の種痘

 天然痘撲滅の闘いは、明治以降も受けつがれた。明治三年(一八七〇)正月二二日付け郡会所からの諭達(鬼池村庄屋「御用留」)には、牛痘の植え付け係医師として、富岡周辺は御用医師吉川文尚、富岡滞在百々禎裕、小松謙益を任命したこと、村々の種痘すべき小児を調べてこの正月中に郡会所に申し出ること、種痘医を派遣すること、種痘をしたうえはこれまでの他国養生や山小屋への養生は一切禁止すること、種痘を嫌うことは心得違いであり、性分にあわせて接種するので種痘をさせること、謝金は、身分よろしき者は小児1人につき金二朱、中分のものは金一朱づつ、困窮のものは無料とすること、種痘すべき小児の名前を書き出すべきこと、出張医師は手賄いとするので食事については出してもよいが、薪代や米代は無用であることなどの内容を達している。

 これをうけて各村では村の種痘医名と種痘すべき小児名を書きあげ、富岡役所に報告をした。富岡役所から医師が派遣され、種痘が実施されたのであった。こうして、幕府領であった天草地方へは、明治政府の種痘行政が展開してゆくこととなった。

【参考文献】

松田唯雄『天草近代年譜』(国書刊行会、一九七三年)

北野典夫『大和心を人問わばー天草幕末史』(葦書房、一九八九年)

東昇『近世の村と地域情報』(吉川弘文館、二〇一六年)

井上忠『木下逸雲の書簡』


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