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日本薬局方の先駆

日本薬局方の先駆 ◆このほど、佐賀大学地域学歴史文化研究センターで、『薬種商野中家からみる江戸時代の佐賀ー第7回地域学シンポジウムの記録』を刊行した。必要な向きは、センター(0952-28-8378)へ送料負担で申し込めば本代は無料で送っていただける。 ◆井上敏幸「草場佩川と第7代野中恭豊、」入口敦志「古活字版『延寿撮要』」、青木歳幸「野中家にみる解剖図」、三ツ松誠「小車社ー幕末佐賀の和歌サークルー」、伊藤昭弘「幕末維新期の野中家の経営」などのシンポジウム報告要旨のほか、野中源一郎・青木歳幸による浅田宗伯自筆の天璋院篤姫ら大奥診療日記「御殿診籍」や、伊藤昭弘「永代日記」などを含む。 ◆浅田宗伯の大奥診療日記も我が国医療史上大変貴重な発見であるが、伊藤昭弘翻刻『永代日記』にも、日本の薬学史上、注目すべき史料がみつかったので紹介する。 膝下雨『永代日記』は、天保15年(1844)から明治6年(1873)まで薬種商野中家と佐賀藩・佐賀県などとのやりとりを書き留めたもので、藩でいう御用日記のようなもので、いわゆる個人日記ではない。... ◆嘉永4年(1851)6月19日に、野中家当主野中源兵衛は、藩役人に、製薬鑑定につき次のような願いを提出した。 ◆野中家が、調合をゆるされていた烏犀圓・反魂丹・地黄丸については、担当藩医らがその製薬に立ち会い、品質鑑定をしていたこと、そのため薬効が佐賀藩領だけでなく、隣国から遠国までも広がり、繁栄できて有り難いことなどが記されている。 ◆そして、「然処先年於医学寮二施薬局鑑定之御印、御彫刻相成、」とあり、すでに医学寮には、嘉永4年段階で、製薬鑑定の役所施薬局ができており、「施薬局鑑定」の押印により、牛黄・清心円其外之儀について販売許可を与えていたことがわかる。この段階における鑑定は成分分析までは含まなかったようで、諸藩における藩許の製薬レベルと同様であったろう。 ◆明治元年(1868)10月になると、野中家から次のような願いが出されている。烏犀圓・清心円・地黄丸・反魂丹の儀について、藩からの鑑定のおかげで、評判もよく有り難いこと、薬方の儀につき、現在は西洋流の医方に変わってきているが看板や効能書は従来通りで御願いしたいとの願いであった。 ◆これに対し、同年11月29日に丸散方などの薬方は鑑定により従来通り認めるが、「烏犀圓薬方の内、水銀・軽粉・白附子一、三品御除捨ニ相成候」とあるのが重要である。 ◆つまり、烏犀圓の薬方成分である水銀・軽粉・白附子は、今後、使用禁止となったのである。ここで重要なのが、好生館の医師らが、西洋医術にもとづいて、烏犀圓の58種ほどの薬種成分のうち、これら水銀・軽粉・附子などの有毒な成分を除外していることである。つまり、少なくとも江戸時代末期には、佐賀藩では、好生館で薬学研究も進められ、日本薬局方の先駆的な製薬基準をつくり、有害物質を製薬から排除していたことが判明するのである。 ◆日本薬局方は、明治13年(1880)10月に至って、衛生局長長與専齋の建議により、松方正義内務卿が太政官に「第一、本邦未た藥局方の律書あらす(略)」という伺書を出し、1886年(明治19年)6月に「藥局方」が公布されている。 ◆その10数年前の江戸時代において、野中家史料を見る限り、佐賀藩では施薬局をつくり、薬剤への統制を強め、明治元年から、烏犀圓などの薬のなかへ、有害物質の水銀や軽粉を使うことを禁止するようになった。 ◆好生館の医師たちは、西洋医学の薬局方をもとに、我が国漢方薬の内容についても基準作りを目指していたことがわかった。これは、日本薬局方の先駆的業績であり、佐賀藩出身医師永松東海や丹羽藤吉郎らが、日本薬局方の制定や改正に参加したのも、そうした伝統があったからといえよう。

乍恐奉願口上覚 某元え調合差免置候烏犀圓・反魂丹・地黄丸之儀、御医師様方時々御立 会御鑑定被成下候処より効能自然と相願、御領中ハ不及申、御隣領遠国までも 只様相弘り、繁栄仕難有奉存候、 然処先年於医学寮二施薬局鑑定之御印、御彫刻相成、 其以後奉願候牛黄・清心円其外之儀は、右御彫刻之御印奉乞請居候 え共、我々調合之儀は表包並能書をも以前之形ニて売弘罷在候処、 自余二不相見合訳を以先般右能書相改候様可被仰付之処、 共通ニてハ買取之向々疑念も可致哉二付、矢張打追之通ニ〆(シテ)売弘候様蒙御達、尚又難有奉存候、 然末今又被仰達候は、打追之能書二鑑定之御印御申請候様無之て不叶旨被仰達奉畏候、 就は今又何角難奉願奉恐人侯え共、最前中上候通今更能書改候通ニては買入之向々何とか疑念を起し、 自然と咄口手薄ク可相成哉二付、右等之亘り奉案痛候、去迚ハ御達之旨も御座候処、 打追之通被成置被下候様ニも難奉願、依之重畳吟味合見候処、右能書別紙ニ〆当時御鑑定 之御方々様御名前御印をも奉乞講売弘候はは、調合之時々厳密ニ御見分被 成下候訳相響一際人気も引立、且は御手〆(締)宜訳こも差当申間敷哉と奉恐奉存候、 其通御聞済於被下は差免被置候調合之儀数代相渡り、我々家株相古ヒ居候候訳、 自然と他邦へも相響、冥加至極御重恩猶又難有奉存候条、御支所 無御座候はは何卒願之通被仰付被下候様、此段御筋々宜被仰達可被下儀深重奉願候、以上   亥(嘉永四)六月十九日                    野中源兵衛                                      野口丈次郎                                      村岡大兵衛 別当 清次兵衛殿 別当  別当 兵右衛門殿 右之通願出候処、元々之通ニて施薬局鑑製之印、乞請ニ不相及候段、御当役 御聞届、御申候段、八月十六日町方御役所より三人御呼出ニて御達相成、但此 節町方代官高木権太夫殿・中野忠大夫殿也


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