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正橋剛二氏と『小石家来簡集』

◆正橋剛二(まさはしこうじ)という富山の精神科のお医者さんで日本医史学会会員がいた。 ◆知り合ったのは、今から約25年前、立山に関する本草学の研究書を読んだことから、当時私が代表をしていた国立歴史民俗博物館の「地域蘭学の総合的研究」(報告書は国立歴史民俗博物館から同名で2004年刊行)に参加していただいた。 ◆この研究で、正橋先生は「越中高岡蘭方医の研究」という論考を発表された。知られている蘭学者門人帳から高岡の蘭学者を網羅し、その事績を史料にもとづいて解明した400詰め原稿用紙100枚にも及ぶ実証的な研究だった。 ◆爾来、ご一緒に研究をさせていただいた。京都の医家小石元俊・元瑞らの塾究理堂に入った越中の蘭方医が多かったことから、小石家文書の研究をしたいと語られていた。 ◆そして、今から12年前、平成19年(2007)8月9日、ご一緒に京都の小石秀夫医院をお訪ねして、書簡研究のご許可をいただいた。... ◆それから、先生と私と、海原亮(住友史料館)、有坂道子(橘大学)、三木恵里子(当時京都大学大学院)に古文書解読の先達浅井允昌(堺女子短大名誉教授)をお招きして、毎年3回の研究会を京都で重ねてきた。 ◆研究会の夜は懇親会で、歴史や医学、山岳の話などを、柔和な笑顔でお話される先生が印象的だった。 ◆研究会の書簡解読は、思いの外、時間がかかった。一つの書簡を初回担当者が解読・解説してみんなで検討後、2回、3回と担当者を変えて、3回以上同一文書を読み合わせ、間違いないといえるところまで、繰り返し解読したのだが、近世の医学用語が難しく、初回は、1日かけても埋まらない文字も多くあった。 ◆たとえば、小野蘭山の薬に関する書簡、譽石、葶藶(ていれき)、阿勃勒(あぼつろく)など、漢方医学の知識がないと理解できない言葉が一杯でてきて、正橋先生になんども教えていただいた。 ◆亀井南冥から小石元俊にあてた寛政2年(1790)12月19日付の長文の書簡があった。寛政2年といえば、寛政異学の禁が出され、幕府では朱子学以外教授禁止になった。その余波が福岡藩に及び、寛政4年に南冥は甘棠館祭酒を罷免させられるのだが、まだその危険は感じていなかったようで、医業では「内外ニてハ三百人餘ニ及候病人数」と書いており、医業繁多で薬の製造が間に合わなかったことが書かれている。 ◆この書簡は、従来、亀井南冥といえば儒学思想のなかでそれこそ無数に語られ研究書があるなかで、医者としての南冥が語られることはほとんどなかった。しかし、じつは南冥は医者としても名医であったことをうかがわせる重要な文書であった。 ◆この書簡中に、どうしてもわからない文字があった。瓜の下の字はどうみても、草かんむりに帯だがなんだろうと思案投げ首していたら、若手の三木さんがスマホで文字検索して、あった、瓜蔕(かてい)、マクワウリの蔕(へた)のことで、痰などを除く薬と解説してくれた。一同が、スマホの威力をあらためて感じた一瞬だった。 ◆それやこんなで、あっというまに時は過ぎ、平成27年になった。春の研究会に出られた正橋先生は、その日は懇親会も出ずに早めに帰られた。その6ヶ月後、私たちは先生の訃報を聞くことになった。 ◆先生の生前に本にできなかったことを悔やみ、残された私たちは、墓前に備えることを急いだ。海原さん、有坂さんが中心に編集をすすめ、ほぼ原稿が揃った。 ◆さいわい、今年、文科省の出版助成研究に合格して、この12月に、『究理堂所蔵京都小石家来簡集』(思文閣出版、2017年12月20日、14400円プラス税)として出版できた。高額なので図書館などに推薦していただいたら幸いです。


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