若山健海の種痘資料
本日は片道5時間かけて宮崎県日向市の若山牧水の生家(写真)と牧水記念文学館にでかけて、夜9時ごろ帰ってきました。若山牧水は、「幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」や「白鳥はかなしからずや空の青、海のあをにも染まずただよふ」などの歌を詠んだ歌人です。◆信州の東筑摩郡広丘村(現・塩尻市)出身の歌人太田水穂に師事し、水穂の娘(?)太田喜志子を嫁にしました(喜志子の歌碑は松本市の村井駅前にあります)。旅と酒をこよなく愛し、43歳でなくなるまでに、約9000首の歌を詠んだとも言われます。◆急に牧水の歌にめざめたのではなく、ある調査にでかけたのです。じつは、牧水の父立蔵は医師でした。生家はその診療所でそのまま残っています、◆そして立蔵の父健海、すなわち牧水の祖父が、現在の所沢の生まれでしたが、江戸の薬種商のところに奉公に出て、その後、長崎に修業に出、天保8年(1737)ごろに、日向のこの地で医を開業しました。そしてこの健海が、日向地方に初めて牛痘種痘を実施した医師だったのです。◆嘉永2年6月の牛痘伝来後、長崎に赴き、楢林宗建から分苗をうけ...、郷土の医師福島退庵とともに嘉永3年春から、村で種痘を実施しました。その種痘人名簿が、牧水記念文学館に残されていることがわかったので、その資料調査に行ってきたのです。◆写真は、種痘人名簿で、「種痘Koepok傳嘉永酉初春上旬到于崎陽蘭人monnickei君為師得是術而歸于宮崎施之連名」とあり、健海が嘉永酉年(これは嘉永三年の誤り)に長崎でモーニッケに健海の師である楢林宗建に伝えた術(牛痘法)を得て宮崎に戻り、施術した人名が以下の通りであると書かれており、「三月六日福島退庵悴鯉一郎 若山健海悴立造」と、二人の自分の子どもに接種して成功したあと、地域の子どもたち140人ほどに施したことが書かれています。◆もう一冊の明治6年の種痘人名簿も残されており、折をみて調査結果をまとめていきたいと考えています。幕末期在村医による種痘の普及が、地域医療とその後の地域文化にどのような影響を及ぼしたのか、一つの典型的な事例紹介となりそうです。
◆若山牧水記念文学館で、「牧水は、太田水穂の娘、太田喜志子と結婚し」といわれて、娘だったかなあと、ちょっと違和感を覚えていた。『東筑摩郡・松本市・塩尻市誌』人物編をみればわかるだろうと、風邪引きのまま、ゴホン、ゴホンと咳こみながら、寒く暗い書庫をショコショコ探してみたが、本がみつからない。ようやく『東筑摩郡・松本市・塩尻市誌』第3巻現代下を見つけ出した。◆その670頁に次のようにある。「明治末期から大正期にかけて、各地の青年に大きな感銘を与えた旅の歌人若山牧水は水穂と同郷である広丘村の太田喜志子と結ばれた。喜志子には「筑摩野」「眺望」等の歌集があり、牧水没後はその「創作」を主宰している」などとある。やはり、太田水穂の親族だったかもしれないが、娘ではなく同郷の一族だったというのがどうやら正しいようだ。◆まあ、ある意味関係ない人にはどうでもよいことが、いちいち気になるのが習い性となってしまった。風邪がぶり返さないうちに、牧水のこよなく愛した酒を飲んで寝るとしよう。◆おっとそのまえに、写真は若山家に残っていた医学書2冊(ほかはいまのところ残っていないようだ)。「鎮痙剤」と朱筆されている書の内容は、林洞海の『窊篤児(ワートル)薬性論』巻六。林洞海は小倉藩医で、江戸にでたあと佐藤泰然と長崎で修業、やがて伊東玄朴のすすめもあり、幕府奧医師になった蘭方医。もう一冊の「麻酔剤下」は『ワートル薬性論』巻八。『ワートル薬性論』は幕末期の西洋薬物・薬効をまとめた書として価値が高い。健海もまた、本書を読みつつ、製薬にも心がけたとみられる。もう一つの写真が、若山薬局の請求書チラシの版木。印刷すれば「記 金 薬価 右之通り相成候也 東郷村大字山陰 若山薬局 殿」。これは「大字」と「薬局」の語から、健海の子立蔵の時代のものだろう。さてこんどこそおやすみ。