松隈甫庵・竹内新八・鮎沢周禎・吉益南涯
◆27日、野中家史料を整理していたら、佐賀藩医松隈甫庵の筆写した『方函』(医療の処方集を記したもの)の冒頭に、次のような記述を見つけた。「方函 信州竹内氏之所蔵也。門人鮎沢氏は同郷人也。寓居于江都数十年、于茲名声頗藉也、予偶其門游而得之、抜出衆方中最適用之方也」とある。以下、丸薬、薬湯、散薬、膏薬などの製法を記している。◆松隈甫庵は、文化年間ごろに京都の古方医で吉益南涯(吉益東洞の子)に学んでいた。そこでやはり南涯門の信州出身の鮎沢氏と会い、鮎沢氏の師である竹内氏の処方をみて、筆写したものとみられる。◆信州竹内氏とか鮎沢氏とか、とても懐かしい名前が思いがけず出てきた。じつは、この竹内氏は六代竹内新八のことで、鮎沢氏とは、その門人で、鮎沢周禎である。◆竹内新八は全国に知られた信州諏訪の眼科医で、私の著書『在村蘭学の研究』(思文閣出版、1998年)に「(諏訪藩医の)眼科の竹内家の祖は、延宝二年(一六七四)頃、三河より諏訪へ来住した眼医といわれる。享保七年(一七二二)に竹内持崇が、一五人扶持で眼医として高島藩に召し出され代々新八を襲名。三代新八(持救)...の天明頃からその名声が全国に知れわたり、諸大名家の眼病も治療した功績で、文化元年(一八〇四)に新知百石を受けた。文政元年(一八一八)、五代新八(持長)の時に下総の眼科医磯貝秀庵が来訪し、竹内流が秀庵と同じ長州和田流内科であることを記す。六代新八(持光)は、京都大坂に修業し名声はいよいよ高まり、処方録には遠く松前・奥州からの患者も記録されている。各地から参集した患者は、門前の長屋に宿泊し、針による白内障手術などをうけた。家伝目薬として雲切目薬(香梅膏)などがあった。 竹内家門人に上州出身の桐淵道斎や鮎沢周禎(のち高島藩へ仕官)・矢島真斎(松本藩に仕官)・樋口礼甫(幕府に仕官)・小出泰蔵(薩摩藩に仕官)などが知られる。万延二年二八六一)正月、美作久米北条郡中北上村医師玄益は、同地での医師開業願に竹内新八方で眼科と本道を修行したことを書きあげている。竹内家をはじめ藩医は庶民をも診療したから、庶民は医師による医療の実効を体験できたし、医師による医療の必要性をひろく意識させるものとなった。」(同書111~112頁)と、詳しく紹介してあった。◆鮎沢周禎は、明治期になると、信州松本の出身で最後の漢方医といわれる浅田宗伯が、漢方医の復権をめざして温知社をつくると、諏訪温知社を結成し、その中心人物の一人となっている(同書181頁)。◆若かりし佐賀藩医松隈甫庵と信州諏訪の鮎沢周禎が、京都の吉益南涯のもとで、処方を教え合う仲になっていたのである。いまから約200年前の、佐賀と信州とを結ぶ医学交流の一端をみることができた。◆松隈甫庵は、京都で修学後、帰郷して、佐賀藩医として活躍した。その長男が松隈元南という蘭方医で鍋島直正の最後をみとった侍医であり、好生館の病院長もつとめ、佐賀での近代医学のもとをつくった一人となり、甫庵の四男が、川崎家に養子に行き、川崎道民として、万延元年に遣米使節団に随行し、ワシントン・ニューヨークまで出かけ、帰国後は写真家、ジャーナリストとして活躍したのであった。