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大庭雪斎

佐賀医学史話。大庭雪斎について ■大庭雪斎はシーボルトに学んだか。 大庭雪斎、名は忞(つとむ)、字は景徳。雪斎と号す。佐賀藩士大庭景平(仲悦)の子で、同族の大庭崇守(寿庵)の養子となる。文政年間に島本良順(龍嘯)について蘭学を修行した。その後、長崎に出て、シーボルトに師事したとの伝承がある(呉秀三『シーボルト先生其生涯及功業』)が、確証がなく、むしろこれは間違いだろう。というのは、雪斎自身が、自著のオランダ語文法書である『訳和蘭文語』前編の安政二年一二月序文で、「不肖年三十九ニシテ初テ原本ヲ習読シ、今日ニ至ルマデ十有二年許、中間世累ノ為ニ看書ヲ怠ル者若干年、方今ハ厳命ヲ奉シテ原本ニ臨メトモ、研業年月浅クシテ、猶上面ニ一膜ヲ隔テタルカ如シ」と述べており、三九歳にして初めてオランダ語の原本を習読したとあるので、雪斎が蘭書を習読したのは、長崎でなく、次に述べる大坂時代のことと考えられる。 ◆雪斎は、どこで蘭学を本格的に学んだか。緒方洪庵が、『訳和蘭文語』後編の題言に、「西肥雪斎大庭氏予(洪庵)同窓之友也、幾強仕憤然起志、始読西藉不耻下向不遠千里来游于予...門、焦思苦心、衷褐未換而其学大成矣」とかいてあり、洪庵と同門であること、雪斎は西洋の書籍をはじめて読むことを恥じずに、千里の道を遠しとせずにやってきて洪庵の門に入り苦労して大成したと書いてある。 ◆洪庵の蘭学師匠は二人いて大坂の中天游と江戸の坪井信道である。古田東朔氏の調査によると、寛政一〇年~一二年にかけて刊行された志筑忠雄『暦象新書』上中下三巻に、雪斎が刪定を加えた安政四年(一八五七)の『暦象新書』の雪斎の序文に「余往年浪速ニ遊ビ、先師天游中先生ニ従ヒ、緒方洪庵ト同窓シテ、共ニ此書ノ説ヲ受ケ、自ラ謄写シテ家ニ帰レリ。爾后ハ医事ノ紛雑ナルガ為ニ之ヲ筐中ニ納メテ顧ルコト無リキ。再遊ノ後ニ於テ、家族等愚昧ニシテ書籍ノ何物タルヲ知ズ、此書ヲ併セテ人ニ借与シ亡失セル、若干部若干巻ナリ」とある。 ◆雪斎の師は大坂の蘭学者中天游であり、天游の蘭学塾思々斎塾で洪庵とともに蘭書を学んだあと、いったん郷里に帰り、ふたたび大坂に来て、洪庵の適塾に通ったのであった。洪庵は文政九年(一八二六)七月から天保元年(一八三〇)まで天游塾に学んでいるので、雪斎もこの四年間のある時期に洪庵とともに天游の思々斎塾で、医学のみならず『暦象新書』など自然科学的な素養を身に付けたのだった。 ◆大坂で修行した時期と場所はどこか。 郷里に帰ってから再び大坂に遊学した雪斎の居所は、『医家名鑑』(弘化二年)に、「内科 今橋二丁目 大庭雪斎」とあり、過書町の適塾から数百㍍の場所にあった。 大坂再遊の期間は、中野操氏旧蔵の浪速医師見立番付による調査では、天保一五年(弘化元年、一八四四)二月版には、雪斎の名前がなく、弘化二年四月版に東前頭三六枚目に初見で以後番付が少しずつ上がって、弘化三年四月版で西前頭三〇枚目、弘化四年五月版で西前頭二〇枚目と少しずつ番付けがあがり、弘化五年(嘉永元年)五月版には、雪斎の記載がなくなっているので、弘化二年、三年、四年の三年間で、この間に医業を開きつつ、適塾に通って蘭学学習・原書講読を深めたものと思われ、さきに『訳和蘭文語』で三九歳のとき初めて原書を講読しというのも弘化二、三年のこの 修行のときと合致する。 ◆洪庵の塾で研鑽をつみ、洪庵が義弟緒方郁蔵の助けをかりて数十年かけて刊行した名著『扶氏経験遺訓』の毎巻本文に、次のように           足守  緒方章公裁               義弟郁子文 同訳           西肥  大庭忞景徳 参校 と校正役として毎巻の最初に記載されるまでになった。 洪庵の門人帳『適々斎塾姓名録』には、天保一五年正月からの六三七人の名が書き継がれているが、この門人帳には雪斎の名前がない。それは、雪斎が洪庵の同門であり、客分的な存在であったからであろう。 ◆なぜ大坂を選んだか。 じつは、雪斎の最初の蘭学師匠島本良順(龍嘯)が、文政五年(一八二二)から大坂に出て天満町で開業し、大坂に出て三年後、文政八年九月発行『浪花御医師見立相撲』(大坂医師番付集成12 思文閣出版)に、「頭取 テンマ(天満)島本良順」と初めて記されるまでになった。さらに翌文政九年、文政十一年の『浪花御医師名所案内記』や『海内医人伝』にも記載され、きわめつきは、文政十二年三月刊の『俳優準観朧陽医師才能世評発句選』には、「解剖 中環 糸町端、精緻 島本良順 西天満、窮理 橋本曹(宗)吉 塩町」と紹介されている。 良順の右隣は解剖の得意な中環とあり、緒方洪庵の師でもある中天游のことで、左隣は、窮理(物理学)で著名な我が国電気学の祖ともいわれる橋本宗吉であった。解剖と窮理で高名な二人に並んで記載されるほどの「精緻」な蘭方医として評価されるようになっていた。良順の学問的志向が、医学だけでなく自然科学にもむけられており、こうした良順の影響により、雪斎は大坂を目指したのであろう。 ◆帰国後の大庭雪斎はどうしたか。 雪斎は、嘉永四年(一八五一)藩の初代蘭学寮教導となり、安政元年(一八五四)に弘道館教導となり、オランダ語の文法書『訳和蘭文語』前編を安政三年、同後編を同四年に刊行し、オランダ語学習には文法を学ぶことの重要性を、わかりやすい口語体で紹介した。安政五年(一八五八)に好生館ができるとその教導方頭取となり、西洋医学教育を推進した。文久二年(一八六二)には、物理学入門書『民間格知問答』を刊行し、教授した。佐賀藩の西洋医学・自然科学を率先して推進したのであった。 ◆雪斎はその後どうなったか。 慶応元年(一八六五)に職を辞した雪斎は、維新後の明治六年三月二八日に没し、伊勢町天徳寺に葬られた。六八歳。法名を義山常忠居士という。 オランダ語に秀で、多くの著作物を残した。『遠西医療手引草』、『民間格知問答』(元治二年・一八六五)、『訳和蘭文語』(安政二年、三年・一八五五。 五六)、『液体究理分離則』(稿本、佐賀大学小城鍋島文庫蔵)、『(ヘンデル)算字算法起原或問』(稿本、佐賀大学小城鍋島文庫蔵)


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