三枝俊徳日記と上総佐貫藩の種痘
◆先日、緖方塾の解剖のことを書いたら、千葉のTさんから本がでているよと教えていただいた。早速注文したところ、本日午前中に届いた。三枝一雄編『三枝俊徳日記』(崙書房、2800円、2012年)である。興味深い内容ばかりだったので、ほかの仕事をさしおいて一気に読んでしまった。 ◆三枝俊徳は、上総国佐貫藩(現在の富津市付近)1万6000石の藩医である。同藩医であった父俊徳の長男として文政6年(1823)6月10日に生まれ、天保14年(1843)に家督を継ぎ、襲名して俊徳と名乗った。彼は西洋医学の広がる中で、漢方を学びなさいという君命に従って、漢方を熱心に勉強した。 ◆しかし、弘化4年(1847)2月12日、大事な跡継ぎ息子敬造を死なせてしまった。漢方医である俊徳にとって、敬造の病気はいままでに経験したことのない、どうしてもわからない病気であった。敬造が亡くなる直前に、稲村素庵という蘭医に見せたところ、これは原名格魯烏布、釈名を義膜喉欣衝という病気で、すでに手遅れと言われた。そのとおりに嗣子敬造は亡くなってしまった。 ◆素庵に示された病名は、漢方医である彼...にはまったく未知の病名だったため、ある日、蘭医の井上宗瑞に相談したら、それは箕作氏の著した名医彙講に出ていると教えてくれた。読んでみるとあるではないか。死んだ息子の病気の徴候から経過、原因・治方まで精確に書いてあった。 ◆このとき、自分は蘭医に負けないように、漢方の医書はほとんど看読したのだが、嗣子の疾病の原因、薬剤の奏功についてこれほどはっきり書いてあるものはなく、いままで自分は何をしてきたのか、慚愧の念を抱いた。 ◆もとより、西洋医学を学ぼうと思ったこともあったが、君命を固守し、漢方の道に深く入ったのだったがと、深く深く後悔した。 そこへ黄疸の患者がやってきた。漢医籍には五行に配すれば脾は黄なりとかあり、その原因・病状は明かでなく観念的だった。たまたま宇田川玄随先生の『内科撰要』を見ると、胆汁が血液に流れると黄疸になると原因が明らかになっている。 ◆ここをもって、俊徳は、今は君命に背くけれども、領民の疾苦を救うことで他日必ず恩に報いることになると西洋医学研究に没頭しはじめたのだった。 ◆俊徳は、嘉永4年4月に長女、長男(二男?)に始めて牛痘を施した。これは、同年に井上宗瑞が、江戸の桑田立斎から牛痘の苗を分けてもらって、種痘をしていたものである。自分の二児に接種したところ、7日目に微熱を発し、種処見点をあらわしたが、全身には広がらなかった。
◆こうして西洋医学研究と実践を始めていた俊徳にまたまた転機が訪れた。文久元年(1861)に、藩主の大坂加番にあたり、随行を命ぜられたのだった。病気の母をおいていくのはと躊躇する俊徳に、母は憤然としてこういった。 医員のなかから抜擢されたのだから君恩に報ずるのは今しかない、 もし、お前がいないときに、私がなくなっても少しも悔いることはない、潔く旅の姿を整えなさいと叱咤激励された。 ◆こうして、大坂に上った俊徳であるが、藩医tとして城内にこもる毎日であった。ともに上坂した藩医大芝玄俊と協議し、むなしく光陰を過ごすことは遺憾とおもい、緖方塾への質問願い書を差し出したところ認められた。
大芝玄俊卜協議ヲ為シ空ク光陰ヲ費スコト遺憾二付、緒方 ニ至り質問致シ度願書差出ス ロ上之覚 私共在番中御用透之際当所丼池町二住居罷在候緒 方洪庵ハ医家有名之者ニ候へハ、医業為研窮罷越シ 医事不審等質間仕度、左候へハ格別之修業ニ相成候 義と奉存候、依之定式他行之外一ケ月両三度ツツ外 出御免被成下候様仕度、勿論両人之内壱人ツツ罷出 聊カ御差支無之様可仕候、此段奉願候 以上 八月廿日 大芝卜両名 右ハ研窮之為メタルヲ以テ願之通許可ス、是ヨリ数回緒 方ニ至り解剖生理ヲ尋問ス。
俊徳は、こうして緖方塾へ出入りを許され、解剖生理のことを尋問した。また、大坂での交友も広がった。 ◆やがて、文久2年4月1日に緖方洪庵の代診方小野玄眠がやってきて、4月2日に芦島で解剖があるとのことだった。 4月2日に、俊徳はでかけていって、その一部始終を書き留めた。
四月一日 緒方代診方小野玄眠ヨリ明二日解剖有之ニ因り 当方迄出席ス可キ旨報知アリ、此事君侯ニ相願ヒ
二日早朝ヨリ緒方ニ至りタルニ大番頭小笠原近江守侯ノ医員小野玄亭来り居レリ、余大二歓ヒタリ、緒方先生ハ感冒ニテ出張ナシ、塾中彼是支度相整ヒ(塾ハ二階ニアリ)塾生十人余卜小野卜二人合テ十二人淀橋ノ脇ヨリ乗船シ、適塾卜云小幟ノ印ヲ立テ漕キ出ス、此処ヨリ都合四艘出船ス、緒方郁蔵先生ハ南塾トアル船印ナリ、是レヨリ暫ク漕キテ千嶋新田卜堀割川ノ間ナル芦嶋卜云フ所二至ル、 是レハ罪人ノ刑事場ナル由、此所ニ於テ小屋ヲ造立シ解剖所トス 罪人ハ二人ニシテ頭脳二箇、身体二箇、四ケ所ノ解剖台ニ備工夕 リ、願主ハ松平伯書守侯ノ医員小林中庵、渡辺玄辰ナリ、 事ハ山田全江、内藤数馬、岡田彦治郎、緒方代伊藤懐蔵 中山春堂、日野主税等ナリ 第一 頭部解剖 中山勘解由 松本俊平 胸部解剖 内藤英吉 腹部解剖 佐々木文中 石村友仙 第二 頭部解剖 柏原学両 村田文機 胸部解剖 津田精斎 西岡周碩 腹部解剖 安田 曽 藤野貞司 右ノ役割アリト錐トモ緒方塾生ノ手ニテ一体二頭ヲ解シタリ 故二適塾生徒最モ勢力アリ 解剖ノ時ハ逐一弁論スルヲ以テ傍観者各筆記ス、傍観 医ハ皆傍観札ヲ持参ス、凡六十名余 緒方郁蔵先生初高尚ノ医員多分出頭アリ (此時郁先生ハ散髪ナリ) 永日タルヲ以テ大約七ツ時解剖終りタリ、門限アルヲ以テ伊 藤愼蔵二謝辞シテ小野玄亭卜伴ヒ陸路ニテ城内ニ帰ル、大坂二来ルカ為メ医事ノ効ヲ得タリ
解剖は緖方塾生が中心となって手際よくすすめられた。60余名の見学者があった。大きな解剖であった。解剖をおそらく初めて見た俊徳にとって、大坂に来て医事の効を得たと満足できることであった。
◆以後、俊徳は佐貫藩医として藩主や領民を治療しつつ、幕末維新の激動をくぐり抜けた。廃藩置県以後も、地域医療に従事しつづけて、明治39年10月7日に死去した。享年84。 ここにも、在村蘭方医の生き様をみることができた。