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皆川淇園はカルテの書き方を教えた

昨日、京都の儒者皆川淇園の門人になぜ医者が多いのか、それは現代におけるカルテの書き方を教えていたからだ、と記したら、廣川和花さんからそれは重要な要素です、詳しく教えてくださいというコメントがあったので、ちょっと専門的になりますが、良い論文を紹介します。◆それは、私の科研費報告書『西南諸藩医学教育の研究』(正式名は、平成24~26年度科学研究費補助金「佐賀藩・中津藩・長州藩を軸とする西南諸藩の医学教育の研究」2015.3、A5版、352頁、非売品)に掲載された、三木恵里子「医学初学者の遊学環境」(同書、135~143頁)という論文です。◆この報告書は352頁もの大部な報告書ですが、市販化されていないのと残部がほとんどないので、一般には入手困難です。いつか本の形で市販化して紹介したい、よい報告書だと思うのですが、とりあえず、今回は、少し長いですが、三木論文の内容をできるだけ本文引用のかたちで、紹介します。◆三木さんは、「近世の学習形態の一つに、地方から三都・長崎などへの遊学がある。家庭や地元での学びを経て、最終的に文化の中心地で学問を修める、という...ことが一種の学歴となっていた。医学を修める者も、多く遊学をした。たとえば、伊勢松坂の商家の生まれだった本居宣長は、医者になろうと京都に遊学した。堀景山のもとで漢籍を学んだのちに、堀元厚に入門して医書を習った 。京都は宣長にとってあこがれの地であり、日記を見ると宣長は京都での生活を大いに享受したようだ。」と京都が本居宣長にとっても、遊学の地としてあこがれであったことを述べ、「『平安人物志』に載る学者に、皆川淇園という人物がいる。淇園の門人帖には、山脇東洋の子弟や小石元俊、賀川玄悦などの『平安人物志』に記載される医者とその紹介で入った門人の名前が多く見られる。医者が、門人に淇園を紹介し、儒学を学ばせたのはなぜか。どのような人が紹介されたのか。」という疑問から、研究をすすめ、山脇家門人と柳沢淇園の共通の門人は少ないという従来の学説を否定し、むしろ山脇家子弟と関係者からの紹介が多いことを指摘して、その理由となる淇園の二つの著書を紹介しました。◆そのひとつが、『医案類語』十二巻、医学・薬学の用語を意味ごとに分類した辞典である。「集められた医学用語にわかりやすく和語で解説をつけている。たとえば腹痛の項であれば、「腹中絞絞トシテ迷悶極マリ無シ」「臍築湫シテ痛ム」など、腹痛の様子を表現する文例が12並ぶ。そして、「築湫」の左横には「オシツツムヨウニ」と漢語の意味が書かれており、「臍築湫シテ痛ム」とは「臍をおしつつむように痛む」という意味だとわかる。「傷寒」と割注があるので、『傷寒論』が出典であることもわかる。」「「補」「潤」「血」などの語も、書式と送り仮名・ふり仮名をつけた形の用例によって示されており、空白部分に字や語をあてはめれば漢文が完成するフォーマットが用意されている。医学を学ぶ者が、医書に出てくる難解な語や臨床で実際に使うであろう文を習得するのには最適な書であるといえよう。」とあり、医者が現代でいう医学用語の意味を、空欄穴埋め式のフォーマット的に紹介していたことがわかります。◆「ふたつめは、『習文録』である。」「淇園が塾で教えていた漢文作文教育を再現したものが、『習文録』である。『習文録』も『医案類語』と同じく初版が安永3年であるので、山脇家との共通門人が学んでいた内容だと言ってよい。」「『習文録』は淇園の塾で漢文作文習得のために行われていた「射復文」という方法をそのまま再現したものであった。淇園の門人である葛西欽は『習文録』題言に、「塾課ニ近コロマタ射復文ト云モノヲ作ス、其事甚タ文ヲ習フニ便ナルヲ以テ、諸生競テコレヲ為ス」と書いている。」と、三木さんは、『医案類語』で医学用語の意味を書式化して、医学生に学ばせ、『習文禄』で医学論文作成のための文章作成方法を教授していたと分析しています。◆だからこそ、皆川淇園の塾には、医者の子弟があつまり、門弟3000人(実際は『有斐斎受業門人帳』で確認できるのは1313人である)といわれた人気儒者になれたのでしょう。


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