top of page

鹿島藩医師秋永宗寿

 秋(あき)永(なが)宗(そう)寿(じゅ)(一七世紀後半~一八世紀前半)         

                  鹿島藩三代藩主直朝侍医

秋永宗寿(鄰周)は、鹿島藩三代藩主鍋島直朝の主治医。当初は佐賀に在住していた。直朝の重大な症状のときには、佐賀から船に乗って、浜町の舟津に上陸して往診したという。直朝が宝永六年(一七〇九)に八八歳で亡くなる直前の宝永五年正月から三月までの鹿島藩日誌『花頂日記』には直朝の診療の様子が克明に記され

ている。宝永五年正月一六日には殿の小用が二〇回ほどで、立川正怡・秋永宗寿・古川意宣の三人が診療し、この日は益気湯に人参を一分五厘加え、正怡が薬を差し上げている。三月二日には殿の小用につき、秋永宗寿が薬を調合している。同年一〇月二三日には、(直朝が)朝、食後の行水のあと気絶されたので、(宗寿)が体をさすって脈をみたところ、腹が大分張っていたので、さすったところお吐きになられたなどの診療記録がある。

秋永家は、医家としては宗寿(鄰周)が五代目で、以後代々鹿島家侍医として六代律磬―七代鄰中(通淳)―八代鄰豊(玄説、木下玄仙忠之の子)―九代鄰次(宗英、宗寿、通淳)―一〇代鄰弼(宗寿、玄説)―一一代鄰休(交鄰、曽英、鄰爾)―一二代徳鄰(育太郎)と続いた。九代鄰次の弟吉太郎は、下河辺順益の養子と下河辺俊意である。一一代目の鄰(りん)爾(じ)は、『医業免札姓名簿』には、安政三年(一八五六)に、故福地道林門人、熊次郎殿家来、内科、秋永曽英、三一歳とある。熊次郎殿は一三代鹿島藩主鍋島直彬で、明治一二年(一八七九)、鍋島直彬が沖縄県知事就任すると随行し、のち鹿島の浜町仲町で開業。東京帝国大学医学部を卒業した長男皆太郎が明治二七年、二八歳で病死したため、医を廃業した。【参考】『花頂日記』(鹿島市祐徳稲荷神社蔵)、『鹿島藤津医会史』(一九八八)                       (青木歳幸)


特集記事
記事一覧
アーカイブ
タグ
Follow Us
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square
bottom of page